私と仏教のハナシ
(今回の内容は宗教に触れてますので苦手な方はすみませんがBackボタンをおねがいします。)
少し真面目な話をします。
私はいわいる寺孫で、小さい頃から仏教というもののすぐそばで暮らしてきました。
母方の祖父母宅が浄土真宗のお寺で、本当にまだ鼻水を垂らしているような齢から祖父のお説教を聞いてきました。
正直ついこの間まで、長〜いお説教のお話が苦痛で仕様がありませんでしたが(笑)悩むことや、乗り越えなければいけないことにあたった時に私の根本として考え方を支えてくれたのはこの祖父のお話でした。
普段何気なく生きている中でもこの考え方は私という人を成り立たせてくれている大事な部分であることをこの歳になって気づきました。
今回は23歳の今、私が何を考えていたのかの記録です。根本になっているのが浄土真宗の教えなわけで、急に宗教に目覚めて読んでくださる方に押しつけるわけではないです。ですが、こういったお話が苦手な方はまた次回のブログでお会いしましょう…。
他力本願という考え方
仏教の言葉に「他力本願」というのがあります。この言葉は「人は自力で生きているようだが、実は他人によって生かされている」という意味で、祖父がよく口にしていたことに「おかげ様の気持ちを持つ」というのがあります。
他人というのは必ずしも人ではなく、私が毎日口にする食べ物もそうです。
「いただきます」というのは命をいただかせていただきますというところから来ているのは小さい頃に教わったかと思いますが、これも他力本願の教えから来たものかと思います。
親鸞聖人というかたがおられますが(祖父のお話に何度と出てくるので、小さい頃はシンランショーニンっていうポケモンみたいなキャラクターやと思ってましたw)
この親鸞聖人がおっしゃるには、"他力というのは如来の本願力"であるそうです。私の生命は様々な物や人の働きによって生かされており、ただ意味のない生命ではなく、願いが掛けられた命だそうです。
どんな生命にも生まれた意義があり、私たちは生きる意味や喜びを見出して生きていかなければならないということです。
まあ、色々小難しそうなことを並べましたが、私が1番大事に思っているのは"おかげ様"という気持ちです。
仕事場でものすごくイジワルな先輩がいたことがあります。毎日毎日怒られて、もう辞めたい!って思っていたときもありましたが、今考えると怒ってもらえないと何もわからないままで失敗ばかりしていたかも…この時代怒ってくれる人も少い…おかげ様で気付かせていだだきました、成長することができました。と考えられるわけです。
ある、おばあさんが歳を取ってから病気にかかって大変辛い闘病生活を送ることになるのですが、辛い辛いと弱音を吐かずに、病気になってやっと周りの人に生かされておることを教えていただきました、おかげ様で…と言ったそうです。
私もオーストラリアにきて、どれだけ周りの人たちに生かされてきたか、今も生かされているかを気づかせてもらいました。色んなおかげ様があって今の私の暮らしがあります。
このブログも読んでいる人がいてくれるおかげ様で再開することができました、これからもよろしくお願いします。